いまさら読了、ハリー・ポッター。
- 2011-05-26(15:19) /
- 本
当然、PCも開かなかった(^^;)
だからアタチは ぐーぐー寝たり
起きてるときは 遊ぼって怒鳴ったりばかりでちたよ

by タミ
大ヒットしているものには距離を置くという、基本的にひねくれたスタンスのため

(前にも書いたけど、たまたまブックオフの洋書コーナーで、最初の1冊を105円で買ったのがきっかけ。
その後日本語版を立ち読みして、あまりの違和感に卒倒しそうになった。当たり前だけど、翻訳者の世界というフィルターを一度通してあるため、空気感がまったく違うのだ。
だから読める人、読んでみたい人は英語で読まないと、このコーフンの1/8くらいしか伝わらないと思う)
でも、本当の面白さは、最終巻である7巻目の、しかもストーリーの終わりにならないとわからなかった。
物語の面白さというのは普通、ストーリーのうまさや奇抜さ、キャラクターの描き方、描写が丁寧で説得力があるか、話に無理がなく納得のいく展開かどうかなどにかかっていると思うのだけど、このHarry Potterは、それらは完璧とは言えないと思う。けっこうダレたり飽きたりというときもありました。
でも、それらを補って余りある力を持っていて、それはきっと、人物の描き方だろうと思う。
勇敢さ、忠誠心、命にかけても約束を守ることといった騎士道精神は、さまざまなエピソードや登場人物の死に方などに顕著に現れていて、思い出すだけでうるっと来る。
そして、悪者の筆頭だと思っていたら本当は愛に生きた人だったとか、素晴らしい人徳者だと思っていたら、えっ、違ったかも、あっでもやっぱりそうだったかも、とか、最後の最後まで驚かされ、泣かされっぱなし。
作者は人をよく見て生きてきたんだなぁと思う。
ただ、そこで心底驚くためには、1巻から6巻まで順に読み進めていかなければいけないので、途中でやめてしまう人も結構いたんじゃないかなぁ(わたしの妹は、日本語版2冊目で挫折したと言っていた)。
もう一つの魅力は、伏線に次ぐ伏線が後からいろんなことにつながっていく、糸の張りめぐらせ方。
なにげない一瞬の場面が、数巻あとになると命に関わってきたりして、これまたびっくりの連続なのだ。
怒りっぽくて思い込みが激しい主人公のHarryのことは、それほど好きになれないんだけど(もちろん自然と応援はするわけだけど)、そこがいわゆるヒーローっぽくなくて、かえって好ましいのかもしれない。
再読に値する物語だと思う。
ヒーローといえば 当然オレでしょ
かっこいいし 主人公だし 世界の女はオレのものだし

by 大ちゃん
さて、先週末の父のお見舞い。
といっても、だいぶ調子が戻ってきて、すでに仕事場に復帰している。
無理はしないと約束はしてくれているものの、入院しているときのあの弱々しさを目にしたあとでは、まだまだ用心してほしいと強く思う。
家でレンコンとひじきの炊き合わせ(柚子の塩漬け入り)を作り、持参。
これは、食欲がなかった父が、醤油味を喜ぶので、少し濃いめに味つけしたもの。
無農薬の茶葉を佃煮にしたのも持っていく。
それと、この地方では珍しく、「辛味大根」がスーパーにあったので、きっと父が好きだろうとひらめいて、大根おろしにしようと1本買っていく。
例によって、実家の野菜ストックをチェックし、キャベツと青菜をゲット。
キャベツはざく切り、青菜は下茹でしておき、にんにくと生姜(実家にないのはわかっているので持参

塩だけで調味して、ここにきて母がおもむろに取り出してきた豚肉も入れて、山盛りの肉野菜炒めのできあがり~。
味噌汁は、豆腐とえのきと青ネギ入り。
母が言うには、賞味期限が切れかかっている冷凍パックのカニの足を退治せねばならぬとのことで、これは解凍するのみ。
これに、辛味大根をおろしたのを一品追加。
案の定、父は「珍しいね~懐かしい。昔はこればかりだったが、今は見ないねぇ」と、とても喜んでくれた。
全体に、野菜をモリモリ食べてもらえたのでよかった

以前に比べて父の食欲は2/3くらいのようだけど、もともと大食いなので、それで普通並みになって、ちょうどいい気もする。
ある朝の風景……目を開けると
年長組はふとんの上、年少組は脇に落ちていた


ところで、市販の素などを使わなくても家で簡単に麻婆豆腐が作れるとわかってからは、ちょくちょく試してみていたが、先日、テレビで中華料理のシェフが「辛くしたくないときは、八角と花椒だけ入れる。これだけで本格的な香りが出るよ」と言うので、ぜひやってみたいと思って八角を買ってきた。
(ちなみに、辛くしたいときはプラスして豆板醤を入れればいいとのこと)
八角は初めてで、使い方がサッパリわからなかったんだけど
この☆の房を2、3個もぎとり、外殻ごと使いました

その番組で「最初に豆腐を切って、軽く塩茹でしておくと、舌触りがプルプルになるよ」と言っていたので、これまたやってみることにする。
鍋に胡麻油を入れて熱し、ニンニクと生姜を炒める。
八角と花椒を投入。
中華だしを湯で溶いたものをじゃっと入れて、紹興酒少々を加え、塩で味をつけて醤油を数滴垂らし、塩茹でした豆腐を入れてしばらくグツグツ味をなじませる。
あ、青みが何もないと気がつき、冷凍庫のほうれん草を入れる。
あ、肉を入れるのを忘れた(>_<)と気がつき、豚肉の薄切りを入れる。
火が通ったら、あらかじめ水溶きしておいた片栗粉を加えて、とろりとさせる。
できあがり~。
辛くない麻婆豆腐です♪

これが、美味しいのよ~(≧▽≦)
八角は、使い方が全然わからず、ネットで見てみたりしたんだけど、あまり情報がなくて適当に入れた。
香りは独特で、歯磨きのミントみたいな香り。
(こう書くとあまり美味しそうではないんだけど、とっても美味しい)
少しぴりっとする花椒は、スパイスミルで胡椒のようにつぶして入れる。
この2つが入ると確かに、「中国4千年の味~」(ジャーンと銅鑼の音)って感じになりますわ~

お豆腐はプルンプルン、香りは本物の中華っぽくて、わ~幸せヽ(´▽`)ゞ
ついでに、アスパラガスの太いのが美味しそうだったので、さっと茹でてパスタに入れたある日のお昼。
これも大成功!
アスパラとトマトとハムの 賄いパスタ


そうそう、アスパラって……。
そのまま使うと皮が硬かったりして、繊維が口に残る場合がありませんか?
ずっと前、イタリアンのシェフがテレビで、
「せっかくのアスパラの皮を全部むくのはもったいない。だけど、硬いところは料理をまずくする。だから、どこまで剥くかを知る方法をお教えします」
というので、身を乗り出した。
「生を1本取って、両端を手に持ち、力を入れて折ってみる。折れたところから根のほうは皮を剥く。先のほうはそのままで大丈夫」
と言うのです。
以来、この教えを守っている(このパスタも)が、失敗知らず。
さすが、プロの料理人の知恵の蓄積は違うのぅ~と感心する。
皆さまもぜひ、お試しください☆
はぁ、しばらく書かなかったので、まるで長電話のようなブログになってしまった。
読んでくださった方、ありがとうございます!
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町田の猫たちが路頭に迷わないように、応援中。
この猫たちは、6月末日に、住んでいる家を退去させられます。
里親さん探しに期限ができてしまいました。
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しっぽの生えた天使からのSOS

この件、こちらでも里親さん探しに活動中です。
ねこしゃんしゃん3
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日本語について考える。
- 2010-08-01(17:16) /
- 本
いつ新入りのニャンコが来てもいいように(≧∇≦

というのも、昨日は第一次夏バテかどうなのか、一日中何もする気がでなくて力が入らず、眠いという意識のないままニャンズの朝ご飯を出してしばらくしたら、午前中から昼過ぎまで、ずーっと意識を失っていたのです……。
はっと気がつくと、いつも通りすぐ脇をにゃん吉が固めていて、少し前に目を覚ましたらしい彼女から「ちょっとぉ~! いつまで寝てるのッ

はぁ~ 放っておけばいつまで寝てるのかしら風ってば
アタシがやさしいからいいようなものの……ブツブツ……

それだけ昼寝をして(しかも夜も爆睡)エネルギーチャージをしたせいか、今日はさっぱりと掃除もしたし、布団も干したし、きっちり第一次走り込みに伴う遊びにもつき合ったし、なかなか充実した日曜日になった(^^)b
で、いま読んでいる本について。
英語を話す人なら、「日本語であまりにもよく使う言葉にもかかわらず、英語に訳すのはほぼ不可能」という壁にぶち当たることがあるはず。
わたしもよく、「英語で『よろしくお願いします』って何て言うの」と聞かれ、辟易していた。
だって、「よろしくお願いします」というのは、自分と同等以上か立場が明らかに上の人に対して、
「これから新しいことをやらせてもらいますが、なにぶん不慣れなものでいろいろと不手際があるかもしれません。だけど大目に見るなりやさしく指導を入れるなりして、わたしがうまく立ち回れるようにちょっとだけお手伝いくださるか、あたたかく見守ってやっていただけないでしょうか。要は、気持ち的に味方をしてほしいのですが」
というようなニュアンスを含んだ表現である。
これが使われる状況はそれぞれ違うわけだし、自分の職種やポジション、あるいは相手の立場や気持ちも様々に決まっている。
英語はまず、「誰」が「何をする」というのがはっきりしていないと文章ができないのだから、その「よろしくお願いします」という(別の便利な言葉である「どうも」のような)ほぼどんな意味でも曖昧に表してくれるような日本語に対応する、英語のフレーズがあるわけがないのである。
言葉→他言語は、置き換えできるものではない。
言語とは、歴史や社会状況の積み重ねなのだから、文化vs.文化という意識がなければ、翻訳などできるわけがないのである。
とまあ、鼻息荒く語ったのであるが、「『よろしくお願いします』って何て言うの」と尋ねられ、以上のような熱弁をいちいちふるうのも大人げないので、「う~ん、難しいねぇ」とぼかすと、「なんだ、風さんの英語もたいしたことないのね」という顔をされてしまい、さらに血圧が上がることになる。
ああ、未熟なわたし。
ともかく、そんなジレンマを繰り返し味わわされてきた”英語ができる”わたしが図書館で手にとった本の最初のページに、
「よろしくお願いします」という日本語を英語で言うには、なんと言えばいいのですかと、十か月ほどのあいだに五人の人たちから訊かれたことが、僕がこの本を書くためのきっかけとなった。
とあったのだから、気持ちをお察しください。
即、貸し出しカウンターに持っていきましたとも。
この本はね ヒモがついてないから かじれない!
だから ちっとも面白くないんだよオレはね

『日本語で生きるとは』
片岡義男著(筑摩書房)
これはあのチャラいイメージ先行の『スローなブギにしてくれ』の作者と同じ人によるものなのだが、プロの物書きに「簡潔でドライな文体がすばらしい。日本にはこれほどすぐれた同種の書き手はいまい」と褒められるだけあって、文化から経済から歴史にまたがる言語論が、ほんとうに平易な言葉で展開されていて、とても勉強になる。
もしわたし同様、「英語で『よろしくお願いします』って何て言うの」などと何度も尋ねられて困惑した経験をお持ちの方がいたら、ぜひ一読をお勧めする。
そんなダウン気味だったわたしを毎日必ず爆笑させてくれるのが、我が家のヤンチャ王子、ラク。
今朝も姿が見当たらないので探していたら、台所の流しの下の引き出しが、少し開いているのに気がついた。
あわてて引き出し脇のドアを開けてみたら……。
あのね 引き出しのなかにいっぱい袋が入ってたからね
どけてそこに座ってるの なんでコラなのかな 意味わかんないんだけど

こういう独創的な”テリトリー探し”は、にゃん吉ねーちゃんは一切しないので、驚きの連続なのだ(^^;)
各猫の性格やクセが違うのには、いつもびっくり。
人間と違って「こんなことしたらマズイかも」という社会的制約があまりつかないから、よけいはっきり出るのかな。
『岡本太郎』を読む。
- 2009-10-02(13:30) /
- 本
『岡本太郎 岡本敏子が語るはじめての太郎伝記』(聞き手:篠藤ゆり/アートン社)。
岡本敏子さんが、「太郎さん、太郎さん」と言ってつねに熱愛していたのが好きだったのだけど、岡本太郎の、一瞬一瞬が真剣勝負でありかつ緊張感が途切れないような生き方はすごいと思う。
余談だが、六本木の裏道を歩いていて、スポーツカーに乗った岡本太郎に道を聞かれた知り合い(老齢の女性)が、「色っぽい男だったわ」と言っていた。
あたしも惚れたかしら たぶんムリね

印象に残った言葉。
「芸術は、全人間的に生きることです。私はただ、絵だけを描く職人になりたくない。だから民俗学をやったんだ」
(民俗学者のマルセル・モースの弟子になり勉強に打ち込んだことについて「なぜ芸術家であるあなたが?」と尋ねられて)
マルセル・モースの「贈与論」とはーーこの本より
経済というのは等価交換で、お互いに利益を成り立たせるものだというのが、西洋の経済学の基本でしょう。そうではなく、無償の贈与によって社会が成り立っているというのが、モースの考え方。何かを得るためにモノを提供するのではなく、とにかく贈与する。それが、根本的に社会を成り立たせる原理だ、と。
アメリカかカナダのネイティブの世界では、大酋長と呼ばれる人に富が集中する。ところがある時期がくると、それを全部集落の人にばらまいたり、海に捨てたりする風習がある。いわば、蕩尽(とうじん)するわけ。それによって、その人の権力が支えられている。これをポトラッチと言いますが、それはそれまでの経済学をひっくり返すような概念だった。
モースの唱えたその考え方が体の芯まで染み入っているのが、太郎さん。マルセル・モースをもっとも正統的に受け継いでいるのは岡本太郎だと、海外の何人もの民俗学者が言っています。太郎さんは頭で理解しているのではなく、実際にそれを実行しているんです。
65歳で”大家”になっているのに、ロバート・ブラウンの景品に「顔のグラス」をタダで付けて、画商に怒られても平然としていたりしたのもポトラッチの体現だし、壁画やモニュメントをたくさん手がけたのも同じ考えからだという。
「モニュメントや壁画がいいのは、一銭も払わないで『いいねぇ』と眺めてもいいし、『なんだ、これは。こんなものを作りやがって』と悪口言ってもいいんだぞ。見ないで通り過ぎてもいいんだよ。それがいい」
かっこいい! 彼の自分の生き方を貫くところに憧れる。
『生きがいの創造』を読む。
- 2009-08-10(09:44) /
- 本
某掲示板で知った『生きがいの創造』(飯田史彦著、PHP研究所刊)という本を借りてみた。英語のタイトルもついていて、これもすごいよ。"The Real Aim of Our Life"というのだ。
……Livesじゃないのは意味があるのかなあ。単に「生」というものをさすのかな? ま、それはさておき。
国立大学の経済学部の助教授である著者が、生まれ変わりや人生の目的や魂の研究を、有名科学者らの著書を論拠にして書いた本である。
経営を専門とする学者が、このような形のないものを信じ、しかもまとめて本にするということは、相当に勇気がいっただろうと想像するが、最初、論文の形で出してみたところ、あまりに反響が大きかったので、大手から出版することにしたという経緯があったらしい。
なかなか読み応えのある本である。
というより、輪廻転生や、魂や、あの世とこの世のしくみについて、わたしが長年、独自に(ナマイキですが)感じ、まとめていたことがほとんどそのまま、ちゃーんとわかりやすく書いてある。
すごいなぁ。
この内容は、霊能力者とか文学者とか宗教者が書いたんじゃダメなのよね。
社会的に認められる、しかも信仰的に中立な、理知的な立場にいる人が書いたんじゃないと。
そういう意味でも、画期的なことだ。
日々漫然と過ごすのではなくつねにポジティブに生きるために、あるいは病気や障害や家族・人間関係の不幸などと対峙するために、また、日頃の雑事にまぎれてすぐに志を忘れてしまうわたしのような者にとっては、特筆すべき本であった。